寒いー。5時起き生活も残すところ後、一日。
随分慣れたなど言いながら、ここ2ヶ月は5時に起きるために生活していたような節がある。
せっかくし込んだ体内時計をそのままに、今後もそこそこの早起きを続けたいなーと思う。
本日も5時起床、いつものコンビニでお昼に飲むカップスープとホットコーヒーを買って駅まで小走り。
あまりの寒さに弁当がご飯の時は、カップyの味噌汁、サンドイッチの時はスープと、ルーツのアロマブラックを購入するのが、定番。
コンビニのおねーちゃんも毎朝同じ人で、またこの人だわ、飽きないわねーとか思っているのだろう。
はじめは無愛想な人だったが、今日は、「寒いですね、行ってらっしゃい。」と言われた。
小鼻を真っ赤にしつつ、ホームでコーヒーを飲んで、電車を待つ。
電車も時間が時間だけに、通勤ラッシュ前、だいたいは席につくことが出来る。この季節、一度座ると2度と立ちたくない程、座席のシートがポカポカ温かい。
そうとうに眠いのだけど、どうにかこうにか小説など開いて読み始める。
今日の読書アイテムは、般若心経の読解本。これが結構面白い!

3ヶ月ほど前近所のAジアンMMというアジア料理屋さんにランチを食べに行ったとき、階段にご自由にどうぞ!のダンボールが置いてあり、その中から頂戴してきた古本である。
実は私は、般若心経を全部暗記している。小さい頃に覚えたものというのは、以外と忘れにくいのである。
誤解を招きそうなので、触れて置くと、私は無宗教である。無神論者かと言うとそれはよくわからないが、何かのはっきりした存在を神と崇めて、祈るようなことはしない。
宗教自体の特性であるとか、それぞれの信者がどのような生活をしているのかとか、なぜその人が熱心に信仰するようになったかだとか、どちらかというとそういう方に興味がある。
なんだかそこに生きていく為の知恵だったり、人間の本質みたいなことが隠されているような気がするからである。
日本人なら結構そうゆう人も多いんじゃないかしらん?

小さい頃の私には、ある日お願い事があった。
訳あって突然会えなくなっていしまった大切な人にどうしても会いたかったのだ。
この呪文を唱えて、お参りをしていれば、必ず会えるはずです。
誰かにそう吹きこまれたのだ。その時の気持ちを思うとなんと意地らしいと思うのだけど、
私はほんの数歳にして、毎日、手を合わせては、意味もわからぬ呪文を唱えた。
桜の季節だった。新しい服を買ってもらって、いつものように、手を合わせて般若心経した後、ベンチに座っていた。
すると向こうから、会いたかったその人が、ニコニコ笑ってやってきた。
びっくりした私は、ワンワン泣いて喜んだ次の日から、ますます毎日、その呪文を唱えた。
これさえ覚えていれば、なんでも叶うような気になっていたのだろう。
そして、こんな寒い日だった。騙された!と思った。
叶ったはずの願いは、どこへやら、再びその人は私の目の前から消えてなくなっていってしまった。
信じる人のことについてあれこれ言う気はないが、これが私が無宗教者になった理由だと思う。

意味もわからず唱えていた呪文の意味は、とにかく、全てのことは、この宇宙空間に存在する全てのものは始めから実体がないのであるというお話。
かなり大ざっぱになってしまうが、リンゴも空も喜びも死も、始めから何も存在などせず、そこには物質的現象があるだけだという考え。
その考えの元に生まれたこの真言こそが、全ての悩み苦しみを取り除くことの出来る最高の悟りであるそうだ。

今年が終わって、後3日ほどで来年になる。年末のこの押し迫ったムードや、大きな買い物袋を下げた
人々で賑わう東京の風景は、嫌いじゃない。
忙しさにかまけて出来なかったことのひとつでもやろうと莫大な量の、今までのみみずくずセッション音源、家での思い付き鼻歌メロディーなどのMDを持って、6年ぶりほどに大阪で正月を迎える。
3日間ほどは昼間から公然と飲んで阿呆になり、3日間ほどはもくもくとこの音源の整理の作業をこなすつもりだ!
ではでは、明日は今年最後の労働、出勤へ、行ってきまーす。